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              私の心にはいつもビートルズがいます。 ファンの人とは共に楽しみ、ビートルズを知らない人には興味を持ってもらえる、そんなブログを目指しています。 コメント・相互リンクはお気軽にどうぞ!

ビートルズ・・・いつも心にビートルズ
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東京ヒルトン

Author:東京ヒルトン
ビートルズが大好きです。
中学生・高校生の頃は、クラスに1人や2人はビートルズのファンがいたものですが、最近は少なくなって、ビートルズのことで雑談できる機会もほとんどなくなりました。
そこでビートルズ談義のできる場を! とこのブログを立ち上げました。
皆さん、よろしくお願いします。

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アニメ「イエロー・サブマリン」の今

2008/10/28 15:13|映画TB:0CM:4
こんなニュースを見つけました。

11月にイギリスで行なわれる第15回ブラッドフォード・アニメーション・フェスティバル(BAF)で、映画『イエロー・サブマリン』のプロダクション・マネージャーのジョン・コーテスが生涯功績賞を授与される。コーテスは、『スノーマン』や『風が吹くとき』の、英国アカデミー賞を獲得したプロデューサーでもある。また、同フェスティバルでは、40周年を記念して『イエロー・サブマリン』が上映される。

アニメ・ファンじゃないのでブラッドフォード・アニメーション・フェスティバルを知らないんですが、おそらく国際的なアニメのフェスティバルなんでしょうね。

ホームページがあります。
→第15回ブラッドフォード アニメーションフェスティバル

『スノーマン』
snowman1.jpg

『風が吹くとき』
風が吹くとき

と『イエロー・サブマリン』
yellow submarine

では、画風が全く違うんですが、同じ人がかかわってたんですね。

「イエロー・サブマリン」はビートルズの3作目の主演映画ですが、Fab4が映画製作に乗り気でなかったためにアニメ映画になったといわれています。

映画の製作過程について、Wikipediaからの引用です。

アニメ『イエロー・サブマリン』はマネージャーのブライアン・エプスタインへアメリカの映画プロデューサー、アル・ブロダックスが企画を持ち込んだものであった。企画の概略はリー・ヤノフ原作、ジョージ・ダニングの監督で製作するというものであった。ブロダックスは、1965年にテレビアニメ番組の「ビートルズ」(1965年9月25日からCBSで毎週土曜の朝に放送。全39話)を制作した実績からエプスタインはこの企画に同意する。しかし映画の制作期間中の1967年8月にエプスタインは急逝し、その後ビートルズはビジネス上混乱することとなった。

テレビアニメ番組の「ビートルズ」とは、日本では「アニメ・ザ・ビートルズ」と呼ばれている番組ですね。


Fab4はこの「アニメ・ザ・ビートルズ」を当時から好きではありませんでした。
自分達の音楽にナンセンスなアニメを付けられることが、嫌だったようです。
ファンとしては、それなりに楽しめるんですけどね。

好きでなかったビートルズ・アニメですから、当然ながら映画「イエロー・サブマリン」の製作にもビートルズは協力的ではありませんでした。

実際のところビートルズは制作に全くかかわっておらず、新曲の出来がよくないと「これは『イエロー・サブマリン』行きだな」なんてジョークを飛ばしていたそうです。

そんな新曲4曲のうち、2曲がジョージの曲だなんて・・・(涙)

しかしそんなビートルズでしたが、実際に映画「イエロー・サブマリン」を観て意識が変わります。

(再びWikipediaから引用)
ビートルズのメンバーは制作半ばにあった作品の試写を観て意識を変えた。アニメ『イエロー・サブマリン』は、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』をモチーフとし、おとぎ話やサイケデリックやシュールリアリズムなどがミックスされ "All You Need Is Love(愛こそはすべて)" のメッセージで統一された作品であったからである。作品が単なるアニメ映画の娯楽作品ではなく、ポップ・アートを含めた芸術性の高い作品と知ったメンバーは、アルバム用の新曲を用意し、更には自らも映画のラスト・シーンに登場する事をブロダックスに約束した。アニメ『イエロー・サブマリン』は映画作品自体が注目され、本国イギリスにましてアメリカでも好評を博し、マスコミから高く評価された。

映画のコンセプトも映像もすべて制作会社の企画でしたが、自分達の音楽があってこそのアニメーション映画だったということに、Fab4は満足したのではないでしょうか。
自分達の曲にただアニメーションを付けただけの「アニメ・ザ・ビートルズ」とは全く違うと感じたのでしょう。

それから40年後の今でも、シルク・ドゥ・ソレイユの舞台「LOVE」や映画「アクロス・ザ・ユニバース」など、ビートルズの音楽をベースに映像作品が作られています。
「イエロー・サブマリン」はその先駆けといえるでしょう。
また、40年後の今でもビートルズの音楽が懐メロではなく現役であるという証しともいえますね。

さて「イエロー・サブマリン」を実際にご覧になったことのない方のために、YouTubeからご紹介しましょう。
その映像は今見ても美しいです。

Yellow Submarine the Movie – The Beatles


ところで、こんなCMをご覧になったことがありませんか?
俳優の田村正和さんとNEWSの山下智久さんが出演している、ノート・パソコンのテレビCMです。


もっと動きのあるのが削除されてしまってて残念なんですが、もうお分かりですね。
この画風はまさに「イエロー・サブマリン」の世界です。
note PC 1
note PC 3

ビートルズの音楽同様、アニメ「イエロー・サブマリン」も後世に引き継がれ、いまだ現役なのです。『人気ブログランキング』へ
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リンゴ・スターの憂鬱

2008/10/21 14:26|リンゴ・スターTB:0CM:12
リンゴ・スターの「ファン・レター送るな」の件ですが、ビデオ・メッセージの反響に驚いたリンゴが10月15日に声明を発表しているそうです。
ringo starr

リンゴによると、自分がサインしたアイテムが大量にインターネット・オークションに出品されているのを憂いて、“サインを求める”手紙を送らないでほしいと訴えたかったとのことです。

また、オークションに出品するために何度もサインを求める手紙を送ってくる人に対して警告したもので、本当のファンに向けたものではないと述べています。

そして、

「動画ついての報道のすさまじさに驚いている。この声明が同じくらい広く届くことを期待している。」

と付け加えているのですが、残念ながら最初の「送るな」メッセージほど広まってませんねえ。
公式HPにもう一度ビデオ・メッセージを出せばいいと思うのですが、それはしてません(なお「送るな」メッセージは現在HPから削除されているようです)。

>自分がサインしたアイテムが大量にインターネット・オークションに出品されている
>オークションに出品するために何度もサインを求める手紙を送ってくる人


最も手に入りやすい「元ビートルズのサイン」ですから、悪質な人もたくさんいるのでしょう。

リンゴは元ビートルズという恩恵を受ける一方で、ビートルズの中でただ一人「ほとんど曲を作れない」「もともと歌手ではない」というコンプレックスを感じているはずです。

リンゴにとって“ビートルズ・コンプレックス”がどれほど大きいか。

それを感じるエピソードをご紹介しましょう。

松村雄策氏の著書「ビートルズは眠らない」の中で、1992年にリンゴにインタビューした時の様子がこんな風に書かれています。

>ニュー・アルバムについて訊ねると、ジョークもまじえて話してくれるのに、ちょっとでもビートルズとなると、まったく答えてくれないのだ。「みんな、ビートルズばかりで、もううんざりだ」と言う。

>このツアーでもビートルズの曲をやっているし、ツアー・スタッフの中にはビートルズのTシャツを着ている人もいた。で、「ビートルズといっしょに年をとってきたファンを、どう思いますか?」とつっこんだら、「愛してる」とブスッと答えた。はっきりいって、険悪な雰囲気になってきた。何が悲しくて、僕はリンゴとこんな状況になっているのだろうか。


ビートルズとしての8年間はリンゴにとっては長い人生のうちの20代の一時期のことであり、いくつになってもその時代の自分しか評価してもらえないのが苦痛だったのでしょう。

「そんなこといっても、ビートルズだったおかげで今のリンゴ・スターがあるんじゃないのか。
ビートルズのメンバーじゃなかったら、ソロ・アルバムを出したりコンサートをしたりできなかっただろう。」

と、元ビートルズとしてみられるのを嫌がるリンゴの気持ちを、我がままだと感じる人もいるでしょう。
今、人気者でいられるのは、元ビートルズだったからじゃないか、と。
all starr band

その意見が間違いだとは言いません。

しかし、元ビートルズだったからこそ、出来なくなってしまったこともあったのだと私は思います。

リンゴの本業はドラマーです。
曲作りのようなクリエィティブな仕事が本業ではありませんし、もちろん歌手ではありません。
ビートルズ時代に数曲ボーカルを取っていますが、基本的にはファン・サービスとして歌っていたに過ぎません。

ドラマーというのは、歌手がいて、ギターなどの他のバンド・マンがいてこその存在です。
ドラマーが一人で音楽活動をするというのは、本来はあり得ないことなのです。
ですからリンゴもビートルズ解散後に自分の能力を活かすためには、本来ならば新しいバンドを組む必要があったのです。

しかしリンゴはビートルズ解散後、二度とバンドを組むことはありませんでした。

なぜ新しいバンドのドラマーにならないのかと聞かれた時、リンゴはこう答えています。

「だって、僕がどのバンドに入っても、バンドより僕の方が有名だろ。」

“元ビートルズ”のリンゴには、もう新しく入れるバンドはなかったのです。
それほど“元ビートルズ”の看板は重かったわけです。
ビートルズのドラマーであったが故に、ビートルズ解散後、リンゴはドラマーとしての本道を外れざるを得なかったのかも知れません。

リンゴが再び私たちに笑顔を見せてくれる日を信じて待ちましょう(^ ^『人気ブログランキング』へ

ringo starr on drums

リンゴに何があったのか?

2008/10/14 15:09|リンゴ・スターTB:0CM:12
ringoPeace.gif
リンゴ・スターが、「今後は一切ファン・レターを送らないでほしい、サインもしない」と自身のHPで宣言しています。
リンゴの公式HP


いつの間にか皺が深くなりましたね~。

参考に日本語のニュースサイトも。
リンゴ・スターが公式サイトで宣言「もうファンレターを送らないで」

リンゴはニコリともせず、脅迫するような口調でこう言ってます。

「これを見ているみんなに重大なメッセージがある。10月20日以降、どのメールアドレスであれファン・メールを送らないで欲しい。10月20日以降は、どんなものにもサインしない。封筒にその日(のスタンプ)があったら、投げ捨てる。ピースとラブの思いと共に、通告している。やることがあり過ぎるんだ。だから、ファン・メールはなしだ。ありがとう。サインもなしだ。全てなし」

これに対して、「黙って捨てるよりも正直に言う方が誠実だ」という声もあるようですが、私にはそうは思えません。
黙って捨てて相手を傷つけない方が、誠実な大人の態度だと思います。

エンターテイメントの世界はファンにとってはリアルな日常の世界ではないんですから、本音丸出しでスターがファンに迫ることが必ずしも誠実だとは私は思いません。
やっぱりオブラートに包むくらいのたしなみが必要ではないかと。

実際にすごい量のメールや手紙が来るのだと思いますので、すべてに目を通すことが不可能なら読まずに捨ててもいいと思いますけど、ファンに送ってくるなというのはやはりおかしいと思います。

相手からのメッセージの受け取りを拒否するということは、その相手とはコミュニケーションを拒絶するということでしょう。

「俺はお前と付き合う気はないから、もう俺に構わないでくれる?」

「あたし、あなたと付き合う気はないから、つきまとわないでくれない?」

日常でいえばこういうことでしょう。

リンゴの立場なら、こう。

「俺にかまうな。お前たちにかまってる時間なんてない。でもCD出したら買ってくれよ。」

スターとファンとの関係の上に成り立っているエンターテイメントの世界で、それはあり得ないでしょう(^ ^;


まあ、リンゴもそんなことは重々わかった上で、あんな発言をしているんだと私は思っています。

リンゴがあんな発言をした背景には、きっと何か重大な経緯があるんだと思います。
一体何なんでしょうね?

リバプールのファンとの確執を理由として匂わせているニュースもありますが、今はリンゴはイギリスに住んでいませんし、ファンレターは世界各国から来るでしょうから、それが理由とも思えないんですよね~。

歯切れの悪い記事になってしまって申し訳ありませんが、今のところ私にはリンゴの真意が全く掴めません『人気ブログランキング』へ

1962年10月のジョン・レノン

2008/10/13 15:21|ジョン・レノンTB:0CM:2
皆さん、お元気でしたか?

私は元気だったんですが、なんやかんやと忙しかったのと、何となく気が乗らず、ブログの更新が滞ってしまいました。

前回の記事が10月2日で、今回の更新が10月13日。
その間にいくつか大事な日がありました。

GORICOさんの「晴れ、ときどきBeatles」が終了しました。
ブログのやめ時については、私も時々考えますね~。

で、10月5日がビートルズのデビュー・シングル「LOVE ME DO」が発売された日。
1962年のことです。

で、10月9日はジョン・レノンの誕生日。

そうなんです。
今頃になって初めて実感したんですが、ビートルズのデビューの4日後がジョンの誕生日だったんですねー。

そのため、1962年の誕生日にジョンが何をしていたかが推測できます。

当時のジョンですが、同じ年の8月に、シンシアと結婚しました。
10月は新婚ホヤホヤです。

また、デビューした時を思い出してジョージ・ハリスンは「ラジオから自分のギターの音が聞こえてきた時、体が震えた」と言っています。
ボーカルを取っていたジョンはさらに感激していたことでしょう。

新婚ホヤホヤでデビュー直後の、まだ仕事が忙しくなかった頃の誕生日。

ずばり、自宅で妻・シンシアと一緒に「LOVE ME DO」を聴いていたに違いありません。
自分の未来、ビートルズの未来、目の前の妻とお腹の中の子供の未来、数多くの未来への大きな期待と不安を抱いて、レコードを聴いていたのだろうと思います。

後にジョンが経験していく様々な出来事を知っている私たちも、1962年のジョンにそれを教えることは出来ません。

なぜビートルズのデビュー曲が「LOVE ME DO」なのか、他にもっといい曲があったのではないか、という声は以前からありますし、そしてこれからも続くでしょう。

いろいろな資料やインタビューを読んでも、デビュー曲が「LOVE ME DO」に決まった詳細な経緯はわかりません。
ただ、過去のインタビューを読んでいて共通することが1つあります。

それは、「LOVE ME DO」以外の曲をデビュー曲にした方がよかったとは、誰も言っていないということです。
ジョンもポールもジョージもリンゴも、みんなこの曲が大好きだったんでしょう、きっと『人気ブログランキング』へ

The Beatles - Love Me Do

ビートルズとエプスタインの出会いの真実

2008/10/02 17:10|Fab 4TB:0CM:4

brian_epstain.jpg
ブライアン・エプスタインはビートルズのマネージャーです。
ライブ・ハウスで演奏していた彼らの才能を信じてマネージメント契約し、彼の奔走のおかげでEMI傘下のパーロフォン・レーベルからのレコード・デビューが決まったのでした。
ビートルズがエプスタインと出会わなければパーロフォン・レーベルのジョージ・マーティンとの出会いもなく、その後のビートルズの歴史は大きく変わっていたことでしょう。
こんなブログもおそらくなかったでしょう(笑)

エプスタインはもともとはリバプールのレコード店の店長をしていた人物で、ビートルズと出合うまではマネージャー業などしたことがありませんでした。
若いころは役者志望であり、エンターテイメントの世界への憧れがあったのだと思いますが、レコード店の店長にいきなりマネージャーになりたいと思わせたのですから、よっぽどビートルズは輝いていたのでしょう。

さて、そのエプスタインとビートルズの出会いですが、よく知られているのは次のようなエピソードです。

ブライアン・エプスタインの自伝「地下室いっぱいの騒音」によると、ビートルズの存在を知ったのは、1961年10月28日、トニー・シェリダン(伴奏がビートルズ)のシングル「マイ・ボニー」を、レイモンド・ジョーンズというビートルズのファンが彼の店に買いに来たときだった。エプスタインと友人のアリステア・テイラーは、バンドの演奏を見るために、同年11月9日、キャバーン・クラブを訪れた。クラブは彼の店から通りを下ったところに位置した。 バンドの演奏を見たエプスタインは「私はそれまで、地元のリバプールで人気を集め始めていたビート・グループに対して一度も興味の目を向けた事は無かったが、すぐに彼らの音楽、彼らのビート、彼らのユーモアセンスに打たれた。そして彼らに会った後でさえ、彼らの個人的魅力に再び心打たれた。そしてそれは全ての始まりだった...」と語っている。
(Wikipedia:「ブライアン・エプスタイン」より)


とまあ、こんな感じです。
しかし、このエピソードは現在では、ビートルズとの出会いを劇的に演出しようとしてエプスタインが創作した話だとされており、Wikipediaではこんな風に続きます。

ただし、この定説は、現在では信憑性に乏しいと言われている。上記の通りエプスタインは1961年8月3日発行のマージー・ビート3号から音楽コラムを担当しているが、同誌前号に相当する2号(当時のマージー・ビートは隔週誌)のトップ記事がビートルズであり、3号から音楽コラムを担当する様な人間が、その二週間前に発行された2号のトップ記事を知らなかった…というのは客観的に考えて著しく整合性を欠くという意見がある。
また一方で、ポップミュージックにまったくの興味がなかったブライアンがこのマージービート誌を通して、当時人気のあったビート・グループに興味を持ったとする意見がある。リバプールの毎夏行われるビートルズ・コンベンションでゲスト出演したアリステア・テイラーが語ったこともある。この話によると、地元で手広くレコード屋を開いていたエプスタインが「新しいネタ」をさがしており、ブライアンのショップからわずか2,3分の場所にあるキャバーンクラブに出向き出演していた「ビートルズ」に興味を持ち契約に至った、というのが対面の経緯という話がある。


それでは今回は、エプスタインとビートルズの出会いの真実を探っていきましょう。

「マージー・ビート」というのは、ジョン・レノンの美術学校時代の友人がリバプールで発行していた音楽誌のことです。
merseybeat.jpg

マージー・ビート誌を通じてエプスタインがビートルズのことを知っていたのなら、レイモンド・ジョーンズはやはり架空の人物ということになりますね。

そこでまず、マージー・ビート誌を発行していたビル・ハリーのインタビューをご紹介しましょう。

(質問):ブライアン・エプスタインをビートルズに紹介したのは君だよね。

(ビル):その通りさ。僕がマージー・ビートをはじめた時は、まだ美術大学に通っていたいたので、昼食のたびにひとっ走りしては、印刷したり、広告取りをしていた。
 配達も自分でやっていたんだ。市内に取り扱ってくれる大所のルートが3つあって、そこへは自ら持って行った。僕が持って行ったのはキャバーンと、リバプールにある楽器店全部と、レコード・ショップだった。
 ホワイト・チャペルにあるNEMS(North End Music Store)に行って、店長に面会を求めたら、それがブライアン・エプスタインだったんだ。マージー・ビートを見せると、彼は「へえ、おもしろいじゃない。1ダースほどもらおうか」と言った。彼はその日の午後電話をしてきて、「信じられない。全部はけちゃったよ。カウンターに置いといた新聞は3週間もそのままなのに、これは30分ではけちゃった」と言った。
 そこで、彼は次の号で145部注文してくれたけど、次の号にはビートルズがハンブルグでレコーディングした記事がメインで載っていたんだ。それは1961年7月のことだった。
 ブライアンは再び電話をよこして、「これは驚いたね。店はてんやわんやで、大量にさばけたよ!」と言った。実はビートルズ自身が店に来ていたんだ。彼らはNEMSの常連だったからね。
 ブライアンは僕を事務所に招いて、「これはすごいよ。リバプールでこんなことが起こっているのか。僕にも書かせてくれない?」と言ったので、彼にレコード評をやってもらうことになったんだ。

(質問):ジョンとポールもマージー・ビートに書かなかった?

(ビル):ジョンにはビート・コラムを担当してもらったけど、彼はきちんと自分で書いてきたよ。それから、ビートルズがハンブルグに行った時に、ポールが書いた手紙を残らず載せたんだ。
 そして次には、ブライアンがマージー・ビートに広告を載せ始めてくれた。そして、ある日僕に電話をしてきて、キャバーンに行ってビートルズを見たいので、取り計らってくれないかと言ったんだ。 
 そこで僕が手配して、彼はキャバーンに行ったんだけど、彼がビートルズを見たのはこの時が初めてだった。

beatles in cavern

ビル・ハリーのインタビューによると、エプスタインはマージー・ビート誌の記事で初めてビートルズを知ったようであり、ここはWikipediaの記載が正しいようです。
新しくわかった事実は、ビートルズのメンバーはエプスタインのレコード店の常連客だったが、エプスタインはビートルズのメンバーを認識していなかった。そしてエプスタインとビートルズが対面する手引をしたのはマージー・ビート誌編集長のビル・ハリーである。
ということです。

なるほど~。これが真実なのか~。
と思っていいのかといいますと、これがまた一筋縄ではいきません(笑)

ここに、もう1人のインタビューをご紹介します。
ビートルズと同時期のバンド「ジェリー・アンド・ザ・ペースメカーズ」のジェリー・マースデンです(Gerryですから「ゲリー」がより正しい発音なんでしょうが、日本ではジェリーで通っています)。
gerry_and_pacemakers.jpg

ジェリー・アンド・ザ・ペースメカーズもビートルズと同じくエプスタインのマネージメントでデビューしたんですが、彼らとビートルズはデビュー前からの友人だったそうです。
彼らも同じ頃にキャバーンに出演していましたから、そりゃあまあ、そうでしょうね。
pacemakers in c

では、そのジェリーのインタビューです。

(質問):どんな風にしてブライアン・エプスタインと出会ったの?

(ジェリー):彼のおやじさんのレコード店で会ったんだ。僕たちは店の常連だったからね。レコード店に通いだしてかなりの時間がたってから、ポールが一番熱心だったけど、エプスタインによく「バンドを見に来てよ」と言ったんだ。彼は「どうして君たちはこんな変なレコードを欲しがるの?」と言っていたよ。
 僕たちは彼をキャバーンに連れて行ったんだ。そしたら彼は、その場の雰囲気やら音楽やら何から何まで気に入ってしまったというわけさ。彼はマネージャー業が自分の性に合っていると感じて、マネージャー役を引き継いだんだ。彼はとてもカリスマ性があったし、とても感じが良かったし、とても品があって、素晴らしい人だった。偉大な仲間だったね。


ジェリーの発言によると、ビートルズのメンバーの中で少なくともポールはエプスタインとキャバーン以前からの顔見知りで、自分からキャバーンに見に来るように誘っていたというのです。そして彼らがエプスタインをキャバーンに連れて行ったとのことで、マージー・ビート誌のビル・ハリーは全く出てきません。

ビートルズとブライアン・エプスタインの出会いの真実は今もってわかりません。おそらくこれからもわからないでしょう。
しかしエプスタインがビートルズの演奏を初めて聴いた時に彼らに惚れ込んだのは間違いないようです。
そして彼ら5人の情熱が、後にロックの世界に革命を起こしたのもまた、間違いのない事実です。

でも当時は本人達も、その出会いが後世に残る出会いになるなんて思ってもみなかったことでしょう。
自分達が交わした契約書が46年後に4700万円になったよと、当時の彼らに教えてその驚く顔を見てみたいものです。
ドラえもんのタイムマシンが欲しいです(笑)『人気ブログランキング』へ
→ザ・ビートルズとエプスタインの初契約書が4700万円で落札

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